今回は吉田拓郎のランキングを作成しました。
彼は日本の音楽史において、とても重要な人です。
その魅力は音楽のみならず、彼が象徴する新しさや自由な感覚にもありました。
この記事では初期の曲を中心に取り上げてみました
1位「春だったね」(アルバム:元気です。)
■曲名:春だったね
■アルバム名:元気です。(1972年)
■動画リンク:「春だったね」
このアルバムがリリースされた1972年は、日本にとって大きな節目の年でした。
1972年2月28日にあさま山荘事件が収束すると、5月15日にはアメリカから沖縄が返還されています。
政治の季節が終わり領土が戻り、日本は早足で平穏を取り戻しつつありました。
この曲は「春だったね」という曲名ですが、その春にはこういう変化があったのですね。
そして拓郎自身も1月にCBSソニーに移籍すると、6月にはで四角佳子と結婚し、7月21日このアルバムをリリースしています。
このアルバムは、オリコンで14週連続首位を記録しました。
この「春だったね」はこのアルバムの1曲目ですが、なんというみずみずしい曲でしょうか。
日本がターニングポイントを通過した後、人々は新しい風のような存在を求めていたように思います。
2位「落陽」(アルバム:よしだたくろう LIVE ’73)
■曲名:落陽
■アルバム名:よしだたくろう LIVE ’73(1973年)
■動画リンク:「落陽」
通常ライブ・アルバムには既発表曲のライブ・バージョンが収録されているもの。
しかしこのアルバムは、全13曲の中で9曲が新曲です。
加えて彼の代表曲であるこの曲のシングル・バージョンは、このアルバムに収録されています。
ライブ盤だからといって、後回しにしてはいけないかもしれません。
まあ私自身の反省点ですが(苦笑)
ライブ・アルバムで新曲を発表するというのは、自由な発想と人気、そしてバンドへの信頼がないと難しいかもしれません。
バンドのメンバーを見ると、ドラムは田中清司、アコギは石川鷹彦、エレキは高中正義、オルガンは松任谷正隆などそうそうたる面々がそろっています。
この曲の高中正義のギターもすばらしい演奏を披露しています。
歌詞を書いた岡本おさみを含めて、当時拓郎は才能ある人たちに囲まれていました。
3位「旅の宿」(アルバム:元気です。)
■曲名:旅の宿
■アルバム名:元気です。(1972年)
■動画リンク:「旅の宿」
この人の最大のヒット曲、人気曲です。
実際この曲はシングルチャート1位を記録しました。
吉田拓郎のウィキペディアに、以下のような箇所がありました。
2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[50]。
正直私はそうだろうかと思いました。
たとえばトワ・エ・モワの「或る日突然」がリリースされたのは、拓郎デビュー前の1969年ですし。
ただ「旅の宿」がヒットした1973年最大のヒットが、宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」ということを考えると、かなりJPOPに近いとは思いますが。
「J-POPの開祖」ではなくとも、JPOPが普及する際彼が大きな役割を果たしたことは間違いありません。
ちなみにウィキペディアにこういう箇所がありました。
拓郎の友人でもあったなかにし礼は、拓郎がプロデュースした「時には娼婦のように」で、拓郎から「これは演歌じゃないの」と言われた
当時拓郎は演歌とは一線を画そうとしていたようですね。
以下の曲も、JPOPのアーティストにカバーされてもおかしくありません。
4位「ペニーレインでバーボン」(アルバム:今はまだ人生を語らず)
■曲名:ペニーレインでバーボン
■アルバム名:今はまだ人生を語らず(1974年)
■動画リンク:「ペニーレインでバーボン」
酒の力を借りて憂さ晴らしをする拓郎の心境を歌った曲です。
拓郎は「元気です。」で一躍時代の寵児になりましたが、同時に彼にとっては厄介ごとに巻き込まれた時期でもありました。
特にこのアルバムがリリースされた1974年の前年にはこんなことがありました。
4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕された[97]。(中略)
釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ[141]。
所属事務所が小さかったため[29]、マスコミからのバッシングを好き放題に浴び[29]、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた[出典 64]。
ただその一方で、彼が森進一に提供した「襟裳岬」は第16回日本レコード大賞を受賞しています。
ビートルズ(The Beatles)などもそうでしたが、過度に注目を浴びると厄介ごとが降りかかってくるものです。
しかし彼は酒と音楽の力で、光と影が極端なこの時期をどうにか乗り切ることができました。
5位「人生を語らず」(アルバム:今はまだ人生を語らず)
■曲名:人生を語らず
■アルバム名:今はまだ人生を語らず(1974年)
■動画リンク:「人生を語らず」
初期の彼は「フォークのプリンス」と呼ばれていました。
しかし次第に彼はロック色を強めていき、このアルバムがリリースされた1974年にはロックに軸足を移しつつありました。
ボブ・ディランの変化と同じように。
フォーライフ・レコードの設立以降の彼は、音楽以外に気苦労が多かったのではないかと思います。
初期の彼の音楽には、当時の若者に向けたメッセージがありました。
たとえば彼が参加した広島フォーク村名義のアルバム「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」とか「今はまだ人生を語らず」など、初期の拓郎は挑戦者の立場でした。
逆にいえば、挑戦者でいさえすれば良かった。
フォーライフ以降も本質的には変わりません。
ただし彼は社長として会社を切り盛りしたり、アイドルに曲を提供するなど、向こう見ずな若者ではいられなくなりました。
今回取り上げた時期以降の彼のふるまいに、私は人間力を感じます。
6位「結婚しようよ」(アルバム:人間なんて)
■曲名:結婚しようよ
■アルバム名:人間なんて(1971年)
■動画リンク:「結婚しようよ」
この曲は当時物議を醸しました。
彼は広島のアングラ・フォークの流れから出てきた人でした。
当時フォークは抗議やメッセージ性がとても重要な音楽で、主語も複数形が多く「我々は〇〇であるべきだ」みたいな感じでした。
しかしフォーク界期待を背負った拓郎が、突然パーソナルな曲を発表しました。
自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は[出典 80]、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され[出典 81]、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注釈 11]を浴び[56]、石を投げられることもあった[出典 82]。
「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した[出典 83]。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)と同じような激しい反発が、吉田拓郎にもあったのですね。
ただいつの間にか拓郎に罵声を浴びせた人たちはいなくなり、逆に拓郎は多くの新しいファンを獲得しました。
潔癖な人から見たら拓郎は軟弱で商業主義に媚びたように見えたのかもしれません。
しかしただ拓郎はパーソナルな世界も歌いたいだけだったように思います。
7位「マークII’73」(アルバム:よしだたくろう LIVE ’73)
■曲名:マークII’73
■アルバム名:よしだたくろう LIVE ’73(1973年)
■動画リンク:「マークII’73」
今回はフォーライフ・レコードを設立する前までの時期を対象にしました。
吉田拓郎の最高傑作は、人によってかなり異なるかもしれません。
一般的には「元気です。」を推す声が多いようですが、個人的には「よしだたくろう LIVE ’73」か「今はまだ人生を語らず」のどちらかを推します。
また私は吉田拓郎について、フォークのイメージで語られすぎているように思います。
この曲を聞くと、もっとロックの文脈で語られてもいいような気がするのですね。
この曲もぶっきらぼうで適度にやさぐれていて、しかしそのラフさが生きた表現になっています。
私はこの頃の彼はボブ・ディランと同じく、美しいフォーク・ソングと無造作なロックの二本立てだと思っています。
どちらにしても彼の音楽は飾らない普段着感覚が魅力でした。
あと彼の音楽にはメッセージ性はあっても、政治色はそれほど強くありません。
実際本人は特定の政治思想を持っていないようですし。
私はシンプルに彼の音楽について語られてほしいと思っています。
8位「今日までそして明日から」(アルバム:青春の詩)
■曲名:今日までそして明日から
■アルバム名:青春の詩(1970年)
■動画リンク:「今日までそして明日から」
ファースト・アルバムの曲です。
彼はフォークを出自とする人ですが、改めてこのアルバムを聞くと最初からフォーク一辺倒ではなかったように感じます。
実態としてはフォーク、ロック、ブルース、ボサノヴァが交錯していたといえるでしょう。
その中でこの曲はフォークらしい曲です。
この曲でよく指摘されるのは、以下の点です。
なぜ「わたしは今日まで生きてきました」ではなく、「わたしは今日まで生きてみました」なのか
この一節は後のアルバム名「今はまだ人生を語らず」に繋がってくるかもしれません。
彼の歌は手探りで生きている人の途中経過みたいなもので、その視線は常に明日に向かっています。
この曲でも将来の不透明さにおびえながら、それでも生きていく姿勢が魅力です。
9位「蒼い夏」(アルバム:伽草子)
■曲名:蒼い夏
■アルバム名:伽草子(1973年)
■動画リンク:「蒼い夏」
彼は女性ファンが多かったことで知られています。
柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。
たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。
それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。
オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。
何気に岡林信康とか高石ともやと比較していますが。。。
吉田拓郎は音楽面で後世に大きな影響を与えました。
例えば日頃からサニーデイ・サービスの曽我部恵一も「結婚しようよ」をカバーしていました。
この「蒼い夏」は、1999年映画『学校の怪談4』の挿入歌としてシングルカットされています。
ただ私は彼の影響は直接的ではなく、間接的な影響が大きいように感じます。
たとえば彼が切り開いた自由さや新しさを土台として、次世代のアーティストがすぐれた音楽を生み出せるようになりました。
詳しく書くと長くなるので割愛しますが、私は彼の真の偉大さは間接的な影響にあると思っています。
10位「人間なんて」(アルバム:人間なんて)
■曲名:人間なんて
■アルバム名:人間なんて(1971年)
■動画リンク:「人間なんて」
この曲はシングルカットされていないにもかかわらず、彼の代表曲の1つとして挙げられます。
この曲の歌詞は文字面だけではネガティヴな印象を与えるかもしれません。
しかし実際に曲を聞くと嫌な感じがしない、不思議な魅力を持った曲です。
この記事を書くにあたって彼のエピソードを沢山読みましたが、彼の根本には人間への信頼があるように思いました。
印象的なエピソードがありましたので、少し長いですが引用しましょう。
篠原ともえの濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。
さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。
しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。
その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。
拓郎の人間への信頼は、以下の曲を聞いても分かります。
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